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旅と言葉と 第1回

2018-04-02

ラテンアメリカに通いだして14年がたつ。そこでは植民地時代に端を発するスペイン語、ポルトガル語、英語、フランス語などとともに、各地に暮らす民族が独自の言語を持ち生活を送る。言語の多様性とは、人々の暮らしの多様性であり、その暮らしを育む風土、背景に広がる歴史の多様性でもあるのだと、ラテンアメリカを旅する中で強く感じた。現地を訪ねるまで想像もしなかった、一様ではない各地に息づく人間の営みが、僕にはたまらなく美しく感じられた。その一つ一つの輝きに魅せられ、気がつくと14年余りも足を運び続けてきた。

 

2004年5月、初めての国外旅行でメキシコを訪ねた。その前年3月に写真の専門学校を卒業した僕は、アルバイトをして貯めた資金を元手に、世界一周をしようと旅に出た。メキシコはそのスタートの国だった。

 

当時僕は、学生の時に読んだ本の影響で、特に中央アジア、東南アジア、インドに興味を持っていた。メキシコから旅を始めた理由は単純で、興味の対象だったアジアを最後にとっておきたかったから。一年かけ色々な土地を訪ね、知らない世界を見て歩きたかった。

 

ラテンアメリカについて観光客以上の知識を持ち合わせていなかった僕は、マヤ文明やインカ帝国の歴史的建造物、パタゴニアの氷河など気になる場所を訪ねようと考えていた。恥ずかし話だが、グアテマラ、ニカラグアなど中米の国々については、その名前すら知らなかった。言葉に関しても、片言の英語ができれば問題ないだろうと、なんとなく思っていた。

 

メキシコとの出会いは衝撃的だった。僕が口にする英語がほぼ通じないのだ。今思えば、下手な僕の発音にも問題があったのかもしれない。それでも、ドキドキしながら声かけた「エクス キューズ ミー」が通じないとは考えもしなかった。相手に対してなんと声をかけていいのか分からない。どうしたらいいんだろうと、混乱した。スペイン語は数字や挨拶、さらには、「私」や「あなた」、という単語すら知らなかった。

 

「英語が通じない」

 

まさかの世界だった。英語は万国共通語じゃないのか?長い間そう思い込んで学校では嫌々授業に参加させられてきた。片言ですら通じない世界があるなんて思いもよらなかった。僕は英語の授業が大嫌いだった。読み方の規則が理解できなかったことが最初のつまずきとなった。This is a penで「あ」と発音する「a」が、「Baby」では「ばびー」ではなく「べいびー」になる。なぜ「ばびー」じゃないのか?僕の頭は混乱した。こういうことが山のように起きる。教師に聞くも、「そう覚えるしかない」という。無機質なものを詰めこまれる。「外国語」を学ぶ意欲を僕は早々に失っていった。英語が嫌いだったから、英語が通じない世界があるということに僕は少しだけ「ざまぁみろ」と思った。

 

1.メキシコ市の中心広場ソカロ。多くの観光客で賑わっている

 

メキシコ市内に日本人が経営する宿があると、事前に調べていた。そこまでの地図を差しながら「ここに行きたい」と身振り手振りでタクシーを捕まえた。宿に着くまで結構な時間がかかった気がする。

 

メキシコではさらに驚いたことがある。メキシコ人が、なんの躊躇もなく外国人である僕にスペイン語で話しかけてくるのだ。道を聞かれたり、何かを取ってくれと言われたり、突然言葉が飛んでくる。初め、何を言われているのかさっぱりわからず、苦笑いでその場を立ち去るしかなかったが、徐々に言葉に馴染んでくると、現地の人とコミュニケーションをとる大きなきっかけとなった。

 

メキシコ市は大きい。近代的なビルが立ち並ぶ市街地とともに、大きなカトリック教会や古い家々など、宗主国であったスペインの影響が色濃く残る旧市街が広がる。地下鉄の駅の出入り口や公園など人が集まるところには屋台が並んでいた。大きな鍋に入った具材を並べたタコス屋、ガムや飴、新聞などを売るキヨスク、雑貨屋、洋服から下着までを扱う店など、色々な屋台がごっちゃにあり、人々がそこに集い活気を放つ。言葉はわからないが、毎日地図を手にあちこちを歩いた。その場に身を置き、空気を吸うだけで、気分が高揚した。

 

宿泊する宿の前に、大きな木が並ぶ公園があった。周囲を商店や教会が囲み、日中の日差しを避ける地元の人の休息の場になっていた。メキシコについて数日後、公園のベンチに座っていると、アフリカ系の肌の黒い14、5歳くらいの女の子に声をかけられた。何を言っているのかわからなかったが、手持ちの英単語と日本語がごちゃごちゃになりながら、身振り手振りを交えて、この近くに泊まっていて、散歩してきたということを伝えようとした。彼女は笑顔で、ウンウンと、わかってくれているような仕草で答えてくれた。彼女が向き合ってくれているおかげで、初めて現地の人とコミュニケーションが取れていることに僕は嬉しくなった。僕はカメラを取り出し、「写真を撮ってもいい?」と、カメラと彼女を交互に指差しながらジェスチャーで聞いてみた。すると、彼女は何かを口にしたのだが、僕にはそれがわからなかった。何か大事なことのような気がした。僕がバックから取りだしたノートに、彼女がゆっくりと何かを書いてくれた。内容がわからない僕は作り笑顔で間を繋ぐ。笑顔で彼女がフレームに入ってくれた。僕はゆっくりシャッターを切った。スペイン語で「ありがとう」を伝えることができず、「サンキュー」というと、彼女が手を差し出した。僕はそれを握り返し、もう一度「サンキュー」といった。

 

2.メキシコで初めて写真を撮らせてもらった女の子。この時の嬉しさは今も忘れられない

 

宿に帰り、スペイン語ができる日本人旅行者に彼女が書いてくれた言葉の意味を尋ねた。「私臭わない?」そこにはそう書いてあったそうだ。なぜ彼女はそんなことを聞いたのだろう。初対面の僕にそう言葉を投げかけた彼女の気持ちを想像すると、返すべき言葉があったあったはずだと申し訳ない気がした。

 

僕は街を毎日歩き続けた。話せなくてもジェスチャーで伝え、物が買えるようになった。

 

3.公園で楽団が奏でる軽快なリズムが、道ゆく人々を引き寄せる。即席のダンスパーティーが始まる

 

メキシコ市の中心にソカロと呼ばれる広場がある。スペイン人が来る以前はアステカ人の首都が置かれていた。スペイン人がそこにそびえるアステカ人の建物をかたっぱしから壊し、建設したのが今のメキシコ市だと言われている。そのアステカ人の首都の上に造られたソカロで、大きなバスケットを抱えた女性がピザに似た食べ物を売っていた。緑色のトウモロコシを原料にし、30センチくらいの大きさに広げ、薄く焼いた生地に赤いソースが塗られ、パクチーと刻んだ唐辛子が乗っていた。歩き疲れて腹が減っていた僕は、それを買って日陰で食べた。一口食べると、強い辛さに口が痺れた。二口、三口、口に運ぶと顔が真っ赤になり、噴き出す汗が止まらなくなった。それを遠くで見ていたホームレスだと思われる男性がこちらに近づいてきた。僕は彼が近づいて来るのを感じながら、そのピザと格闘していた。目の前で彼が立ち止まる。「あ、やばいかな」。僕は腰を下ろしたまま、目線を彼から外した。彼は何かを話しながら僕の隣に腰を下ろすと、飲んでいたペプシコーラをぐいっと僕によこした。「そんな辛いの飲み物なしで食べられないだろ?」僕には彼がそう言ったように聞こえた。それを受け取りグッと飲む。あまり冷えていなかったがシュワっと喉を通る炭酸がうまかった。そのおじさんはペプシを飲む僕を見ると満足そう親指を立て何かを言い、ペプシを残したまま立ち去っていった。なんて場面だろう!僕は汗にまみれ、ペプシとピザを両手に持ちながら呆然としていた。「あぁ、もっとこの人たちと話がしたい!」フツフツとそう思った。

 

4.屋台で売られるタコス。手頃な値段でお腹が膨らむ

 

その後、メキシコ市の宿にはさらに1週間ほど滞在した。その中で、隣国のグアテマラに外国人向けのスペイン語学校が集まる町があると、他の旅行者が教えてくれた。ラテンアメリカを旅する多くの人が、その町でスペイン語を学び、南へと旅を進めるのだそうだ。新しい目標ができた。

 

グアテマラでは、地元の家庭にホームステイしながら、スペイン語学校で勉強した。一ヶ月間の授業を終え、グアテマラ国内をもう一ヶ月旅した。学校で覚えた言葉はわずかだが、それでも、旅先の風景が一気に広がった。聞きたいこと、伝えたいことを言葉にできる。完璧じゃないが相手とコミュニェーションが取れると、そこで営まれている生活が見えてきた。

 

グアテマラには「マヤ系」の先住民族が多く暮らす。旅の中で僕はマヤ系先住民族のマムが暮らす土地と出会う。そこにはスペイン語ではないマム独自の言語による世界が広がっていた。

 

<続く>

 

フォトジャーナリスト 柴田 大輔

 

*写真は、すべて著者撮影のものです。無断転載を禁止いたします。

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