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旅と言葉と 第7回

2018-09-20

早朝のマナグアを発つ宇田さんを見送った僕は、その日、初めてひとりで「ゴミ捨て場」へ向かった。ひとりで来て初めてわかったことがある。働く人々の中に、僕に構う人など誰もいないということだ。待っていても、話しかけられることなどなかった。皆、忙しく働いている。他人の生活の場にきて、勝手にビクビクしている訳のわからない外国人になど構っていられないのだ。

 

僕はカメラを取り出すもどこに向ければいいのかわからずにいた。とにかく落ち着こうとウロウロし、身の置き場を探した。まず、仕事の手を止め休んでいる人たちへ近づき、声をかけた。とにかく誰かと話をすることで、自分がここにいてもいい理由を作ろうとした。

 

何人かに声をかけ歩く中で、僕は一人の少年と出会った。彼の名はラウールという。年齢は15歳前後だったように記憶している。炎天下の中、彼は大人に混じり人一倍働いていた。

 

茹でた芋を食べるラウール。彼との出会いは強烈だった

 

僕は、声をかけやすそうな子どもをコミュニェーションのきっかけにしようとしていた。だがラウールは、そんな甘い考えの僕のことなど見透かしているようだった。

 

僕がラウールに名前を尋ねると、彼は早口で答える。僕はそれが聞き取れず、もう一度聞き返す。すると彼は「何度も言わすなよ」とでも言うように、「ラ」、「ウー」、「ル」と、一音ずつ大げさに口を動かし自分の名を名乗り、すぐさま積み降ろされる廃棄物の山に向かって走っていく。

 

なんとか取っ掛かりを作ろうと、僕は彼の後ろをついてまわる。その僕に、ラウールが唐突に、ゴミ集積車から降ろされたばかりの箱入りのピザを持って来た。そこから一切れ取り出し、僕に差し出す。僕は咄嗟に「腐ってるんじゃないだろうか」と思い、ひるんだ。

 

彼の目線は「お前にこれが食えんのか?」と凄んでいるようだった。僕は少年に試されていると感じた。僕が適当な理由をつけて、差し出されたピザに手をつけないと彼は考えているのではないか。僕は自分の動揺がバレないよう、ピザに手を伸ばす。ラウールの周囲にいる人たちが僕を見ているのがわかると、汗がさらに吹き出す。「腹を壊すくらいなんでもない」と言い聞かせ、僕はピザを受け取り、大きな口を開けかぶりつく。ラウールは腕組みをしたまま僕に視線を送っている。僕は彼の顔を見ることができず下を見たままピザを食べ続ける。こんなに緊張して食べたピザはないかもしれない。

 

だがピザの味は覚えている。チーズはもう固まってはいたが、トマトソースが効いていてうまかった。腐ってなどいなかった。

 

ここには、外から様々な人間がやってくる。僕のようなカメラを持つ人、質問を持ち込み「調査」をする人、役に立ちそうな品物を持ち込み「支援」として配りに来る人、色々な人が、ここを生活の場とする人々の元に近づいてくる。そして、それぞれの思惑に沿った活動をし、感想を抱き、自分の家へと帰っていく。満足を得る人、やりきれない思いを持つ人など様々だ。その中には再びここに来る人もいれば、もう二度と現れない人もいる。だがラウールをはじめ、この場にいる人々にとって「ゴミ捨て場」は生活の糧を得るための仕事の場だ。彼らはここで生きている。

 

労働者のために、リヤカーで食事を売りに来る人たちが何組もいた

 

ここは「ゴミ捨て場」ではないと前述した。「ゴミ捨て場」と呼ぶのは、ここで暮らす以外の人々だ。ここは金を生み出す場所。ここに集まるモノは外に暮らす人々が「ゴミ」にするだけであって、「ゴミ」ではないのだ。

 

この物語の初めに、ゴミ捨て場がある地名が「チュレーカ」というと述べた。そして、ゴミ捨て場で生活する人々が「チュレーカの人々」という意味の「チュレケーロス」と呼ばれていると書いた。外部の人はこの呼び名に対し、「ゴミ」にまとわり暮らす人々という蔑みと好奇の目線を含めていた。しかし、ここで働く人々は自嘲を含めながらもこう言う。「ソモス・チュレケーロス(私たちはチュレケーロスだ)」。そこには、この世界と渡り合いながら、自分の力で金を稼ぎ生きているという荒々しい力強さがみなぎっていた。

 

チュレーカには、何頭もの牛が放し飼いにされていた

 

僕は、ラウールたち「チュレケーロス」と出会い、これまで自分が抱えていた小さな世界観が覆るのを感じた。

 

ピザを食べ終えた僕に「これを飲め」とラウールが3リットル入りの炭酸ジュースの入ったペットボトルを差し出す。僕はそれを受け取り、口の中に残るピザを胃に流し込む。太陽に熱せられた、あたたかいジュースだった。ごくごく飲み込んで、ラウールに返す。「あぁ、そういえばメキシコでも同じようなシーンがあったなぁ」。後になり、この旅のはじめにメキシコの首都で出会ったホームレス風の男性を思い返した。

 

マナグア湖から熱風が吹き付ける。

 

チュレーカで働く人々1

 

チュレーカで働く人々2

 

「グラシアス、ムイ、リコ(ありがとう、すごく美味い)」。下手くそなスペイン語ながら、その風音に負けないよう、大きな声で彼に言った。

 

ラウールもピザを温かいジュースで押し込むと、横に置いた大きな袋、鍵付きの棒を手にし、さっさと仕事に向かおうとする。その時だ。彼がヒョイっと自分がかぶっていた帽子を脱いで、僕の頭に載せたのだ。僕の頭は、伸びきった髪の毛が、マナグア湖の強風と廃棄物から立ち上る煙に晒され、ボサボサに広がっていた。ただでさえ大きい頭がさらに膨張している。僕の頭に彼の帽子は小さすぎたが、後ろの留め具を外して押し込むと、頭の上の方にちょこんとのっかった。何だかよくわからなくなるほどの嬉しさが込み上げた。

 

チュレーカで働く人々3

 

それから一ヶ月、僕は毎日ここに通った。

 

チュレーカで働く人々4

 

言葉は満足にできなかったが、ここに来ると、不思議と相手と意思の疎通ができた。なぜだったのか。この時、僕の中に相手に伝えたいこと、相手を知りたいという強い気持ちがあったからなのかもしれない。

 

チュレーカで働く人々5

 

ある時、誰かが小声で僕にこう告げた「気をつけろよ。お前のカメラを狙ってる奴がいるぞ」。どきっとした。でも今更怖がることはない。もう、盗られたらその時だと腹をくくっていた。また別の日に、別の人が同じことを僕に告げた。「気をつけろ、カメラを盗ろうとしてる奴がいる」。それから何人くらいにだろう。同じように「カメラ、気をつけろよ」と言われ続けた。

 

結局、誰にもカメラを盗まれることはなかった。僕の周りにいてくれていた人たちが、僕を守ってくれていたのだった。

 

チュレーカで働く人々6

 

チュレーカで働く人々7

 

宇田さんと別れたころから、日本の実家からメールが届くようになっていた。同居していた祖母の病状が良くないとのことだった。僕は、ニカラグアに夢中になっていたため、その内容に向き合うことを避けていた。しかし、最初の連絡から一ヶ月がたとうとするころ、もう先が長くないという知らせが届いた。僕は一度日本に帰ることにした。メキシコと日本の往復チケットを買い帰国することにした。一時帰国し、8月、祖母を看取った。メキシコに戻るチケットは10月。それまでの間、アルバイトで資金を稼いだ。メキシコに戻ってからは、行きたかったキューバに行き、もう一度グアテマラに戻り、前述したトドスサントスに滞在した。年が明けて2005月、再びニカラグアへ入国し、「ゴミ捨て場」へもう一度通い出した。

 

 

チュレーカで働く人々8

 

チュレーカで働く人々9

 

約2週間のマナグア滞在の後、僕はもう少し旅を続けることにした。コスタ・リカ、パナマ、コロンビア、エクアドル、ペルー、それからボリビア、チリを少しだけ回った。旅の中で、目が醒めるような鮮やかな景色や、今に至る友との出会いがあった。強盗にあいカメラを盗られたりもした。各地でそれぞれに色々なことがありながら、旅を続けた。

 

 

チュレーカで働く人々10

 

チュレーカで働く人々11

 

最後、手元の資金が底をつきかけ、2005年5月、ペルーから帰国することにした。途中で会った旅行者の中には、旅先で何かしらの方法で仕事を得て資金を作り、長期旅行を続ける人もいたが、僕は「もう、旅はいいや」と思っていた。僕は、一つの場所とそこに暮らす人たちを、時間をかけて撮り続けたいと考え始めていた。

 

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24歳のとき、世界一周をしようと始めた旅はメキシコから始まり、中米を横断し、南米大陸の北西部を歩いて終わりとなった。世界地図で見てみると、とても狭い範囲だ。だが、旅に出る前には名前さえ知らなかった各地の、人々と風土の多様さが、僕の心に強く焼きついた。それから14年が経つ。つい先月(2018年8月)フィリピンに行くまで、僕はラテンアメリカの以外の国々を訪ねる機会を持たなかった。自分で資金を作り旅に出なければならない中で、行ける地域は限られる。僕は、最初の旅で焼きついた思いとスペイン語の世界を忘れられず、お金を貯めてはラテンアメリカへ行くことを繰り返した。そんなことをしていたら、あっという間に20代が過ぎ去り、40歳がすぐそこに迫る歳になっている。

 

年月が経ち、歳を重ねたことで、慣れてきたことも多く、以前ほど労力をかけずにできることも増えてきた。それが「成長」ということなのかもしれない。ただ、24歳のあの時、社会のどこにも身の置き場がなかった不安定な自分が吸った旅先の空気を、今も、ふとした時に思い出す。日常のある場面、唐突に、鼻腔に「あの時」の匂いと熱がパッと広がる。そんなとき蘇る鮮やかな記憶に、叫びたいほどの胸の高まりを覚える。

 

これを書くにあたって、14年ぶりに当時の日記を見返した。内容は幼いことばかりだが、いい時間を過ごしたんだなぁと、何だか感傷的な気分になってしまった。そして、いつの間にか当時の記憶がすっかりセピア色に色づいていたのを今更知った。そうなんだ。僕のこのだらだらと過ごした間延びした青春は、いつのまにか、おぼろげに霞んで見えるほどに過去のものになっていたんだ。

 

僕はその後、この旅で出会ったコロンビアに通い続け、一時、現地に暮らしたりしながら、主にその南部の人たちにカメラを向けている。右往左往しながらも、今に続く出会いに生かされ、ここまで関係を続けることができた。すべての出会いの延長の中で、今があるのだと感じている。

 

フォトジャーナリスト 柴田 大輔

 

*写真は、すべて著者撮影のものです。無断転載を禁止いたします。

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