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旅と言葉と 第4回

2018-06-19

「お前はもっとスペイン語を勉強しろ。じゃないと、お前が何を考え、何をしたくてここにいるのかわからないじゃないか」

 

2004年7月、僕はニカラグアの首都マナグア市郊外に広がる「ゴミ捨て場」にいた。これは、そこを生活の場として働き生きる男性に投げかけられた言葉だ。

首都マナグアからは毎日大量の廃棄物が運ばれてくる

 

マナグア市の北にマナグア湖が広がる。その湖畔に、首都で暮らす人々にとって「ゴミ」となった大量の廃棄物が運ばれる場所があった。そこでは、集められた廃棄物から様々な金属やプラスチックなど、再利用可能なものを選別し、買取業者に販売することで生計を立てる人々の営みがあった。

 

 

マナグア湖畔に広がる「ゴミ捨て場」には多くの人々が働き暮らしていた

 

日差しを避ける木々すらない広大な土地で、灼熱の太陽に照らされた廃棄物が自然発火する。そこから立ち上る煙があちこちに見える。その様は、映像で見た焼け野原となった戦場のようだった。上空には食べ物を求める無数のハゲタカが舞い、酸味のあるすえた匂いが全体を覆っていた。

 

そこに集う人々は、廃棄物をかき分け必要なものを掘り起こすための、先端に鉤をつけた背丈ほどの棒と、選別した物を入れる大きな袋を手にしていた。また、焼ける廃棄物の煙を避けるため、布で顔を多い、ゴーグルをかけていた。廃棄物を積んだ集積車が到着すると、彼らはそこへ向け走りだす。

 

自然発火する廃棄物の煙を避けるため、布を巻き仕事に当たる

 

初めてその場に立った僕は、それまで体験したことのない目前の世界を「異様」と感じ、人と場が放つ熱に怖さを覚えた。

 

この「ゴミ捨て場」で生きる人々を、首都マナグアに暮らす人々は「Churequeros(チュレケーロス)」と呼んでいた。「ゴミ捨て場」がある土地が「Chureca(チュレーカ)」という地名を持つことから、そこに暮らす人を意味する。同時にその言葉には、自分たちが出した「ゴミ」に群がる人々という蔑みと、好奇の目線が十分に含まれていた。

 

だが、Churecaを生活の場とする当人たちは、自身を指しこう言う。「Somos Churequeros(自分たちはチュレケーロスだぜ)」。自分たちを指すその言葉に自嘲を交えつつも、「自分たちの力で、ここで生き抜いている」ということからくる、言外ににじみ出る荒々しい力強さを僕は感じた。幼い子どもから、年老いた大人まで、男女が強烈な日差しを一身に受け日々仕事に打ち込んでいた。

 

様々な年代の人々が集まっている

 

「ゴミ捨て場に生きる人」という存在を、「貧しい」「かわいそう」「危ない」「助けるべき存在」などなど、すでにどこかで見聞きした言葉で捉えようとしていた僕にとって、チュレケーロスとの出会いは「写真を撮る」こと以前に、人として人と関わることの意味を突きつけられた。

 

大人に負けず、働く子どもたちがいた

 

僕がチュレーカへ足を踏み入れたのは、中米を取材するフォトジャーナリスト・宇田有三さんとの、グアテマラでの出会いによる。

 

僕にとって、宇田さん、チュレケーロスとの出会いは、この中南米旅行の転換点となっただけでなく、僕の人生にとっての大きな出来事だった。

 

一連のグアテマラからニカラグアでのことを振り返りたい。

 

・グアテマラにて

 

「君な、写真家になりたいんやろ。ならコバンザメになって、(宇田さんに)くっついて行ったらええやん」

 

その人にとって、軽い一言だったのかもしれない。しかしその一言が、何日も僕の頭の中をぐるぐる回り続けた。

 

2004年、僕はグアテマラの古都アンティグアでスペイン語を勉強しながら、グアテマラ国内を旅していた。僕が通っていた学校は、スペイン語を学ぶ人以外にも長期旅行者、アンティグアで仕事を持つ人、先住民族の織物を学ぶ人、サッカー留学で来た人、グアテマラ文化の研究者など、年齢も背景も様々な日本人が集う場となっていた。

 

冒頭の言葉は、グアテマラで先住民族文化を研究する年配の男性からの言葉だった。

 

当時僕は、一ヶ月のスペイン語学校通いを終えた後、数週間の国内旅行をしては、再びアンティグアに戻ることを繰り返していた。アンティグアでは、いつも同じホームステイ先の家庭に部屋を借り、一週間単位で学校に通っていた。宇田さんとの出会いは、そんな時だった。

 

日本人が運営する僕が通った学校では、毎週日曜の夜、「食堂」として日本食を提供し、学生以外も多くの人が集まった。「すき焼きの日」だったその日を待ちわびていた僕は、腹をすかせて「食堂」に向かった。そこに、グアテマラへ取材で来ていた宇田さんがいた。学校の管理人をしていた男性の紹介のもとで自己紹介をしたのが、初めて宇田さんと交わした会話だったように記憶している。

 

僕は宇田さんのことを以前から知っていた。もちろん一方的にだ。最初の「出会い」は、専門学生の時だった。

 

当時、写真の専門学校に通っていた僕は「深夜のビルの受付」というアルバイトをしていた。内容はいたって簡単で、夜10時に受付に座り、退社する職員を見送る。その後は、朝5時ごろコーヒーメーカーをセットし、6時ごろからパラパラ出社してくる職員を迎え、朝8時に日勤のアルバイトと交代する、というものだった。夜10時から朝5時までは、寝ないことが仕事だ。机にはパソコンが置いてあり、当時、僕の日常にはなかったインターネットに接続することができた。そこで僕は、世界各地を取材するフォトジャーナリストや、世界旅行をする旅行者など、リアルタイムで世界中の情報を発信する人々のサイトを貪るように読んでいた。見たこともない風景や人々の生活、今、世界中で起きている出来事に、僕の想像は果てしなく膨らんだ。「世界一周をしよう」と思い至ったのは、このアルバイトの中でのことだった。

 

宇田さんのサイトとも、この時出会った。宇田さんのページには、アジアや中米の膨大な数の写真群がアップされていた。また、日々更新されるブログ、雑誌などで発表されたルポタージュなど、何日かけても見終わることのできない内容を食い入るように読んでいた。学生の僕にとって、遠い世界に生きている人だった。グアテマラでの宇田さんとの出会いは、「まさかこんなところで」という思いだった。

 

宇田さんはグアテマラで、内戦時代、秘密裏に殺害された人々が埋葬されているという「秘密墓地」の発掘作業を取材していた。「日曜食堂」で話をしたことがきっかけで、あくる日の取材へ、同行させてもらえることになった。

 

この時期、僕は悩んでいた。当時の日記を引っ張り出して読み返すと、煮え切らない思いがあふれている。自分の立ち位置への不安や、写真を撮り生きて行くということへの自信のなさが、はっきりしない悩みの言葉となり、くどくどと繰り返えされていた。

 

「秘密墓地」の取材は、初めて間近で見るプロの佇まいに圧倒され、後ろをヒョコヒョコとついていくだけで精一杯だった。取材の帰り、町中の中華料理屋でご馳走になった。広い店内の片隅で食事をしながら、「写真は食えへんよ。やめたほうがええよ」と、僕は穏やかに諭されていたが、その日感じた熱を消化できず、ただ「はい」「はい」と、返事を繰り返した。後日、その日の写真を見せてもらえる機会があった。あの場で僕も見ていたはずの景色が、全く違った力を持つ「写真」となっていた衝撃は大きかった。

 

それから数日が過ぎた頃、宇田さんがグアテマラから、同じく中米のニカラグアへ行く、ということを誰かから聞いた。僕は「ついて行くべきではないか」という思いを抱いた。この時、ついて行って何をするのか、という具体的なイメージは持っていなかった。そもそも、宇田さんがニカラグアで何をするのかも聞いていなかった。ただ「ここで人生を変えたい」という思いだけが強くなっていった。ここでさらに、「コバンザメ」という言葉がのしかかった。

 

ある夜、ホームスティ先で夕食後、当時、日課となっていたタバコをいつものように玄関先に腰を下ろし吸っていた。その時、同じステイ先で過ごしていた旅行者のシンスケさんという男性がいた。シンスケさんは、日本での仕事を退職し、念願の長期の旅に出た旅人だ。僕よりも年齢が上で社会経験があり、頼りになった。隣でタバコを吸うシンスケさんに、その時の煮え切らない思いを口にした。すると穏やかな口調で「ダイくん(僕のこと)、人に意見を求める時って、背中を押してもらいたい時だと思うよ。宇田さんに話してみたらいいんじゃない?」と言ってくれた。僕はいつもグズグズして、何かを逃してしまう。ここで一歩踏み出すのだ。そう思った。

 

翌日、宇田さんに意を決して「ニカラグアへ同行させてください」と伝えると、「先に行くからマナグアで探してね」とのこと。僕は肩透かしを食った、とは全く思わなかった。マナグアで一軒一軒ホテルを訪ねて歩く自分の姿がすぐさま頭に浮かんだ。そして、そうしようと頭を熱くした。

 

ニカラグアへは中米を横断する国際バスで向かう。宇田さんが出発する翌日の便を抑えることができた。僕は、ニカラグアへ旅立つ宇田さんを、1日遅れで追いかけた。

 

〜続く

 

フォトジャーナリスト 柴田 大輔

 

*写真は、すべて著者撮影のものです。無断転載を禁止いたします。

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