チワン族の歴史
塚田(2000a:3)によれば、チワン族は歴史上、「撞」(南宋〜元)、「獞」(明〜民国)、「狼」(明清時代の間接統治地域「土官地域」のもの)などと表記されていました。また、唐代の「西原蛮(せいげんばん)」(のうちの多くのもの)・「黄峒蛮(こうとうばん)」、北宋時代の「北源州蛮(こうげんしゅうばん))」などもチワン族と関係があると見られます。したがって、チワン族は少なくとも唐宋時代以来の長い歴史を持つと考えられます。
チワン族の起源については諸説あります。多くの先行研究はもともとそこに住んでいた、という土着説とどこからかやってきた、という移住説に分かれますが、土着説をとりつつ「僚(りょう)族」(古代西南非漢族の中で最大の勢力をほこった農耕民族)に関連付ける折衷的な見解(尤中1983)もあります。土着説を主張するのは徐松石(1935)、黄蔵蘇(1958)、村松一弥(1973)など、そして1980年代以降の中国の関連出版物のほとんどであり、チワン族と古代の「百越(ひゃくえつ)」中でも「西甌(せいおう)」、「駱越(らくえつ)」との関係が強調されています。他方、移住説については、移住の時期や現住地・起源などの点において諸説林立の状態です。塚田(2000a:18)はそれらの先行研究を表に詳しくまとめているので、それを引用して以下に示します(各文献は文末の「参考文献」を参照)。
表1 チワン族の移動に関する主要先行研究
氏名 | 発表年次 | 学説内容 | |||
時期 | 原住地 | 起源等 | |||
①劉錫藩 | 1934 | 1 | 六朝隋唐 | 四川 | 狼兵 |
2 | 元 | 湖南 | 1の残留部分 | ||
②林惠祥 | 1936 | 唐 | 湖北・湖南 | − | |
③馬長寿 | 1936 | 六朝隋唐 | 四川 | 僚族 | |
④白耀天 | 1959 | 秦漢以降 | 浙江 | 古代呉越民族 | |
⑤De Beauclair | 1960(1970) | 宋代 | 湖南・貴州 | 五渓蛮 | |
⑥栗冠昌 | 1959 | 六朝隋唐 | 四川・貴州 | 僚族 | |
⑦苪逸夫 | 1969 | 南僮 | 唐代以前 | 湖南・貴州 | 五渓蛮 |
北僮 | 不明 | 不明 | |||
⑧范宏貴・唐兆民 | 1980 | 南宋 | 広西西北部
南丹(羈縻(きび))州 |
− |
しかし、以上の先行学説のいずれも決定的な論拠が不足しているように思われます。范宏貴・唐兆民(1980)によれば、チワン族が「撞」という名称で漢文史料に登場するのは南宋以降といいます。そうすると、それ以前の史料において種族の同定を試みることは極めて難しいです。チワン族が歴史的にまとまりを持つ統合された民族ではないため、その宋代以前の歴史は十分明らかになったとは言い難いです。
ところで、日本では明清時代(一部元代をも含む)、明代以降のチワン族が辿ってきた歴史を明らかにした優れた研究があります(塚田2000a,b)。そこでは、地域によって異なる多くの史料の実証的な研究を通じて、チワン族の社会変動と文化変容の過程が明らかにされています。
塚田(2000a)によれば、チワン族のかなりの部分が明代(一部元代を含む)において多くの小規模集団による波状的移動という形で貴州・湖北・湖南・広西西北部辺境地帯の各地から広西へ移住したそうです。これらの多くの下位集団は、来歴を異にし政治的に自律的であり、また文化的にも(共通性はあるものの)相違があるものでした。かれらは歴史的展開にともなって結集・融合して「チワン族」を形成しました。その要因として、明代初めに統治権力が敢行した貴州遠征およびその後の漢民族の貴州への入植が、そして広西への定住の契機として漢民族による招佃(しょうでん)漢民族地主が農地耕作の労働力と瑶(ヤオ)族の攻撃を防衛する武力としてチワン族を招くこと)が指摘されています。なお、明代以降現在に至るまで貴州、湖南などに少数のチワン族が分布していますが、それが明代に南下移住した際の残留部分なのか、あるいは移住した集団とは直接関係を持たないのかは現在のところ不明であると言われています。今後、チワン族の歴史を長期的かつ体系的に研究することがその解明につながるかもしれません。また、中華民国期や新中国が成立後から現在に至るチワン族の動向やその社会変動に関する全面的な検討も待たれています。
チワン族が長期にわたり漢民族の各方面の影響を受けてきたこと、いわゆる「漢化」過程を歩んできたこともまたよく知られた事実です。漢化の度合いが高いため、中国ではチワン族は漢民族とほとんど変わらず民族的な特徴がないとまで言われる場合もあります。中華民国期に「獞話・土語を話す漢人」とも言われたそうです(塚田2000b:4)。チワン族の内部に多様性があるとはいえ、通婚を媒介としたワン族の漢化は地域によっては言語以外に漢民族と区別が難しいほど進んできたとも言われています(菊池1998:410-414))。しかしながら、チワン族は全面的に漢民族からの影響を受容したからといって、独自性がまったく維持されていないわけではありません。漢民族からの影響と独自の要素との両者が複合的に並存していることがチワン族の民族的特徴だと考えたほうが妥当です。
チワン族の社会
地図1 広西チワン族自治区主要民族分布図(塚田2000b:6から引用)
写真1 広西チワン族自治区天等県龍茗鎮逐仗屯の風景(2015年3月撮影)、筆者の実家の屋上から見た風景です。一番手前の緑は筆者の実家の庭に植えられた龍眼(りゅうがん)(果物の一種)の木です。
チワン族が集中的に居住する地域である広西チワン族自治区だけでも約23余万平方キロメートルと日本の本州に匹敵する面積を持ちます。同自治区は、東は広東省、西は雲南省とベトナム、南は北部湾(トンキン湾)に面し、標高500m以上の山地が全体の53%に達し、さらに山岳・丘陵をも加えると75%にもなります(写真1)。チワン族は自治区の西部・北部の山地に多く居住しますが、中部の丘陵地帯にも、さらに東部の平野部にも居住しています。地図1に、そのおおよその傾向を示します。
繰り返しになりますが、チワン族というのは地域によって異なる諸集団が新中国成立後に政府によって結合された民族です。したがって、これを単一化して語るのは困難です。あえて言うならば、中国現代化の流れに乗って漢民族系社会への同化が進み、独自性は薄れつつある、とは言えます。故郷に老人と子供を残し、若者は都会へ出稼ぎに行って収入を得ています。服装も食事も人間関係も社会構造一般が漢民族との間に大きな差異を認めがたくなっています。
それでもなお残る歌垣の風俗(次回で紹介します)などが特殊な自由恋愛の名残りを留めています。夫婦間の貞操義務が重く、万一浮気でも発覚すれば双方の一族と一族の間で戦争にもなりかねなかったほどです。今日でも浮気した者は相手の一族によって半殺しにされかねません。婚姻は個人の結合である以前に、一族と一族の提携なのです。また、血縁重視で親族の助け合いは篤いです。親族間の相互扶助義務は遠縁にまで及びます。筆者の故郷では今でも互恵互助の共同体をなし、食料や労働力の融通も盛んです。私が幼い頃目にしたチワン社会は犯罪も争いも少なく穏やかで融和的な社会でした。人を疑わず、戸締りもしませんでした。鍵屋は商売あがったりです。
ベトナムと接している広西チワン族自治区は第2次世界大戦時には日本軍が進駐して戦場となり、その後は中国の南の守りの前線となりました。さらに、1979年には中越戦争が勃発しました。その後も1984年2月から7月まで中越国境紛争(両山戦役)が発生しため、中越関係が悪化し、1991年に両国の関係が正常化されるまで、国境地帯は閉ざされたままでした。しかし、1992年に広西チワン族自治区の区都である南寧市が内陸開放都市として開放され、さらに、その後友誼関、東興などの中越国境地帯が開かれました。現在では広西チワン族自治区の区都南寧市において毎年、アジア経済発展の一翼を担うASEANの大規模な博覧会が開催され、今や広西は北東アジアと東南アジアの結節点、交流拠点のひとつになりつつあります。そして、広西チワン族自治区は沿海の華南地域にありながらも、2006年から中国の第11次5ヵ年計画の中、内モンゴル自治区と共に西部大開発地域として位置付けられ、多方面から注目され始めました(関・池部2011)。筆者の地元でも中国経済発展の波に乗って、人々の生活が昔よりよくなり、居住も高床式の木造建物あるいは非高床式の土壁や瓦で作った建物から立派なコンクリート製の建物に変わりました(写真2、3)。しかし、まだまだ発展が遅れている地域もあります(写真4、5)。
写真2 広西チワン族自治区天等県道念屯(2019年2月撮影)、筆者が嫁いでいる村です。昔は大きな山を越えて外に出たそうですが、今は村の人々によってトンネル(約200m)が作られました。
写真3 広西チワン族自治区天等県道念屯の建物(2019年2月撮影)。一階には人は居住せず、豚、鶏、家鴨や牛などを飼ったり、薪を置いたりしています。これは昔の高床式の建物の機能を引き継いだものといえます。
写真4 広西チワン族自治区崇左市北岩村北岩屯(2019年2月撮影)、筆者が子供の頃に住んだような非高床式で、土壁や瓦で作った建物もまだ残っています。
写真5広西チワン族自治区崇左市北岩村北岩屯の高齢女性はまだ土壁や瓦で作った建物に住んでいます(2019年2月撮影)。このような年配の方でも、普段着が民族衣装でなくなりました。
チワン族が集中して居住する山岳・丘陵地域では、新中国成立以来の開墾や植林によって、サトウキビ、キャッサバ、サイバル麻の畑とユーカリ林が増え続けました。これらの地域では、今や米、麦、トウモロコシ、豆、芋などの食糧を生産し、木材の産出量も全国一(2009年データ、964万m3、全国シェア13.6%)を誇るまでになりました。また、亜熱帯性気候であるため二期作が可能であり、果樹の種類も豊富です。マンゴにパイナップル、蜜柑、沙田柚(さでんゆう)(日本熊本県産の晩白柚(ばんぺいゆ)のような大きさ)など、チワン族が暮らす地域には色とりどりの果物が実っています。さらに、中国唐朝の楊貴妃が愛したと言われているライチや龍眼(りゅうがん)などの果物もたくさん栽培されています(写真6、7)。
写真6 広西チワン族自治区霊山県のライチ(2014年6月撮影)、筆者の従兄弟が自宅のライチを収穫しています。
写真7 筆者の実家で収穫した龍眼(りゅうがん)(2018年8月撮影)
チワン族の農村社会の社会・経済的な基盤は、複数の村落から構成される定期市(写真8)で担っています。3日に1回行政機関所在地、または昔から交通が便利な町での定期市で農産物、家禽などを販売することによって生計を立てる人が多いです(写真9、10、11、12)。しかし、ここ数十年、若者や壮年者が都会まで出稼ぎに行くために、年中行事や冠婚葬祭でなければ、農村部の定期市には年配者や児童しか見かけなくなり、町の様相は大きく変わりました。
写真8 広西チワン族自治区天等県龍茗鎮定期市の風景(2019年2月撮影)、若者の姿があまり見られません。
写真9 広西チワン族自治区天等県龍茗鎮定期市の野菜市場(2019年2月撮影)、チワン族の女性が自家製の生姜、レタス、パクチー、ネギ、蓮根などを販売しています。
写真10 広西チワン族自治区天等県龍茗鎮定期市の家禽販売市場(2019年2月撮影)、鶏、家鴨などの家禽が販売されています。場合によって野生の鳥、蛇なども販売されています。
写真11 広西チワン族自治区天等県龍茗鎮定期市の農具市場(2019年2月撮影)、定期市の日を狙って遠くから定期的に出店する漢民族の商人もいます。
写真12 広西チワン族自治区天等県龍茗鎮定期市にある屋根付の市場(2019年2月撮影)、定期市の日に限ってここで衣類、種子などが販売されています。
「チワン族」と「チワン族の社会」とは一枚岩的存在ではないのですが、本稿を通して少しでもチワン族の歴史やその社会への興味を持っていただければ幸いです。
参考文献
・白耀天(1959)「僮族源流試探」『史学月刊』 1959(6):22-26。
・De Beauclair, Inez(1960)A Miao Tribe of Southeast Kweichow and its Cultural Configuration, Bulletin of the Institute of Ethnology, Academia Sinica, vol. 10. (also [in] Tribal Cultures of South West China, Asian Folklore and Social Life Monographs vol.Ⅱ, 1970台北、東方文化供応社)。
・范宏貴・唐兆民(1980)「壮族族称的縁起和演変」『民族研究』 1980(5):40-44。
・黄蔵蘇(1958)『広西僮族哸史和現状」民族出版社。
・黄現璠·黄増慶·張一民(編)(1988)『壮族通史』広西民族出版社。
・林恵祥(1936)『中国民族史』上·下、商務印書館。
・劉錫蕃(劉介)(1939)『嶺表紀蛮』商務印書館。
・馬長寿(1936)「中国西南民族分類」中山文化教育館研究部民族問题研究室(編)『民族学研究集刊』第1期、商務印書館、177-196。
・芮逸夫(1969)「僮人来源初探」『中央研究院歴史語言研究所集刊』39下(慶祝李方桂先生 六十五歳論文集):125-154。
・粟冠昌(1959)「関於僮族族源問題商榷」『民族研究』1959(9):37-36。
・徐松石(1935)『粤江流域人民史』中華書局。
・尤中(1983)「唐宋時期的僚族」『民族研究』1959(4):12-21。
・関満博・池部亮 編(2011)『「交流の時」を迎える中越国境地域―中国広西チワン族自治区の北部湾開発―』 新評論。
・菊池秀明(1998年)『広西移民社会と太平天国[本文編]』風響社。
・村松一弥(1973)『中国の少数民族―その歴史と文化および現況―』毎日新聞社。
・塚田誠之(2000a)『壮族社会史研究―明清時代を中心として―』国立民族学博物館研究叢書[3]。
・塚田誠之(2000b)『壮族文化史研究―明代以降を中心として―』第一書房。
一橋大学大学院 言語社会研究科 特別研究員 黄海萍
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