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【彝語】第2回 ~彝族の歴史と社会~

2016-05-26

彝族の歴史

彝族の祖先はナシ族などと同じ「羌(きょう)人」であると言われています。羌人は中国西北部に居住し、そこから中国西南部へと南下して来ました。羌人は牧畜民であり、南下するなかで西南部に住む農耕民と融合していったようです。現在はこの北来説が最も有力です。四川省涼山地方の彝族は背も高く、顔の彫りも深く、鼻も高いので19世紀から20世紀初頭に訪れた西洋人は、彝族を自分たちと同じコーカソイドの人種であるとして、西来説を唱えました。この西来説の他に東来説、南来説、原住説などがありましたが、いずれも現在では否定されています。

 

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清代四川省涼山地方の彝族(傅恒等編『皇清職貢図』清乾隆二十六年(1761年)(1991年 遼瀋書社)より)

 

さてなぜ彝族はこんな難しい「彝(い)」という文字を民族名に使っているのでしょうか。実はこの「彝族」という名称は自らの言語で表す民族名称ではありません。彝族自らは「ノス」、「ニェス」、「ナス」、「ロロ」などと名乗っています。「彝族」は漢民族から呼ばれた名称です。この「彝族」の名称はもともと中華民国時期までは「夷族」と書かれることがほとんどでした。「夷」は野蛮な人々を意味しました。また野蛮であることを表すケモノ偏を付けた「玀玀(ろろ)」などとも書かれました。中華人民共和国成立以降は、青銅器の器を表し、比較的良い意味であった「彝」の文字が「夷」に替わって広く使われるようになりました。

 

彝族の創世神話を見てみると、「六祖神話」というものがあります。洪水によって世界に一人生き残った「仲牟由(ジョムヨウ、ジュムウウやドムなどとも呼ばれます)」という人物が仙女三人と結婚し、六人の息子が生まれ、この六人の息子が雲南、四川、貴州の各地へと移り住み、各地の彝族の祖先となったというものです。

 

司馬遷が記した『史記』のなかに「邛都(きょうと)」や「雟(すい)」などは彝族の祖先の人々である可能性が高い名称を見つけることができます。また三国時代、諸葛亮が蜀から南征したときの敵将である孟獲も彝族の祖先と言われます。

 

晋代あたりから、雲南は多くの豪族である「大姓」が割拠しました。そのなかでも「爨氏(さんし)」が勢力を伸ばしました。この爨氏は漢族出身のようですが、彝族とは深い関係にありました。そのため彝族と爨氏が同一に見られることも多く、隋唐代に彝族の祖先は「東爨烏蛮(とうさんうばん、東部の黒い蛮人)」と呼ばれるようになりました。この烏蛮の人々が雲南西部の大理を中心に打ち立てたのが南詔国です。この地域にはもともと六つ勢力があり、これを南部の「蒙舎詔」が統一しました。この南詔国の王は歴代「父子連名制」を行なっていました。これは父子の名前がしり取りとなっているものです。南詔国の王は「皮羅閣(ひらかく)」「閣羅鳳(かくらほう)」「鳳伽異(ほうかい、即位せず)」「異牟尋(いぼうじん)」などと続きます。これは彝族などチベット・ビルマ語派の言語を話す民族で見られる習慣ですが、実は父系の系譜を暗唱しやすくすることを目的としているものです。

 

南詔国滅亡後、やはり雲南西部の大理を中心として成立したのが大理国です。この大理国は「白蛮」と呼ばれる人々によって打ち立てられましたが、烏蛮の人々もその成立には協力しました。

 

13世紀にはモンゴル帝国が雲南に攻め入り、大理国は滅びます。モンゴル帝国は彝族の地域を含め、中国西南地方に「土司(どし)」を配置しました。四川南部の彝族の地域には「羅羅斯宣慰司」と呼ばれる土司が置かれました。土司とはモンゴル帝国から官位を与えられた現地の首領のことです。彝族の地域ではこうした土司がモンゴル帝国の代理人として統治を行ないました。

 

土司による統治の方法を「土司制度」と言います。この土司制度は彝族の地域では明代、清代間も引き継がれます。明代に貴州で勢力を誇った彝族の首領である安氏は「貴州宣慰司宣慰使」としてこの地を統治しました。雲南の彝族地域では「烏撒軍民府」、「烏蒙軍民府」などが置かれ、彝族の首領は「土知府」という官職を賜り、これらの地域を統治しました。

 

明末天啓年間に彝族の大規模な反乱が貴州省と四川省を中心として起きました。「奢安の乱」です。この乱は四川の土司である奢氏と先ほど述べた貴州の土司である安氏とが起こしたもので、重慶、成都、貴州などの諸都市を包囲するほどの規模でした。

 

土司の位が授けられたのは彝族の首領だけはありありません。前回のナシ語の連載のなかで紹介された「木氏」も土司です。彝族の土司で特徴的なのは女性の土司も存在したことです。一般的には土司は男性のみがその地位に就くのですが、彝族の場合には女性で土司となる者もいました。有名なところでは明代の貴州宣慰使の妻であった奢香という人物がその土司職を夫から継いだことが知られています。

 

土司制度という間接統治の方法は、次第に官僚が派遣される直接統治へと変わっていきました。これを「改土帰流」と言います。「土司を改め、官僚を派遣することに戻す」という意味です。すなわち土司制度を廃止し、官僚による直接統治を始めることを意味します。清代の雍正年間には大規模な改土帰流が進められました。特に雲南東北部では、清朝は武力をもって土司を制圧し、改土帰流を進めました。そのためこの地域の彝族は殺されるか、ほかの地域に逃げ出してしまいました。このような改土帰流は全ての地域で成功したわけではありません。直接統治より間接統治のほうが効率もよい場合もあり、地域によって土司制度が復活あるいは継続されたりしました。なかには民国時代まで継続した土司もいました。

 

四川省涼山地方は彝族が最も多く住んでいる地域ですが、この地域は改土帰流も十分に行われませんでした。また非常に山深い地域でもあり、彝族の勢力が民国時代まで保持されました。特に19世紀にはアヘン栽培の収入により武器を購入し、武装を強化して外界の勢力の侵入を排除しました。そのため涼山地方の彝族地域は“Independent Lolo(独立玀玀)”などとも呼ばれました。この時期には多くの「家支(父系氏族)」が涼山地方全域で割拠し、この家支間での争いは激しいものがありました。また武装化した彝族は周辺の漢人の村や町に押し入り、人々を掠奪したため、漢人たちからは非常に恐れられました。

 

民国時代になると、四川省涼山地方を出自とする龍雲が雲南省主席に就任しました。「ドラゴンジェネラル」とも呼ばれた龍雲は軍人として頭角を表わし、クーデタによりこの主席の座に就きました。彼は側近に多くの彝族出身者を登用しました。しかし彝族以外の経済官僚なども採用し、雲南省独自の経済政策などを推し進め、成功を収めました。そのため彼のとった政策は「雲南モンロー主義」などとも呼ばれました。雲南省全体の発展を目指していた龍雲は彝族の出自はできるだけ表に出さないようにして政治を行ないました。

 

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「龍雲」(謝本書著『龍雲伝』 1999年 四川民族出版社 より)

 

1949年10月に中華人民共和国の成立の宣言がされた後も、彝族地域はその支配下に入らずに抵抗していました。雲南省は龍雲から省主席を引き継いだ彼の従兄弟の盧漢が最終的に共産党に降伏しました。四川省涼山地方は西昌を中心に国民党軍の大陸最後の反攻拠点となっていました。しかし台湾へ逃げ出す最後の飛行機が飛び立ち、西昌は陥落しました。この時に多量の金のインゴットが飛行機に積まれて運び出されようとしていましたが、重すぎて飛行機がなかなか上昇できず、途中機外にインゴットを放り投げたそうです。そのため彝族の一部の地域では空から金が降るようなことが起きたと伝えられています。

 

彝族の社会

中国では唯物史観の観点から彝族社会は「奴隷社会」が保持されてきたと言われています。過去の彝族社会、特に四川省涼山地方の彝族社会は厳格な階層社会を形成していました。これは「家支」と呼ばれる父系氏族集団と密接な関係がありました。

 

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伝統的な黒の民族衣装を着る彝族の男性(2008年、四川省美姑県にて)

 

涼山地方の彝族は最上層に位置する首領層の「ズモ」を頂点として、武士層である「ノホ」がその次に位置していました。この二者が一般の人々である「チュホ」や「奴隷」とされる「アジャ」、最下層の「家内奴隷」である「ガシ」を支配していました。ズモは人口のわずか0.1%であり、ノホが6.9%を占めます。そしてチュホは50%、アジャが33%、ガシが10%の割合でした。ノホは黒い人を意味し、チュホは白い人を意味します。そのため彝族の支配層は「黒彝」、被支配層は「白彝」というように大別されることもあります。上位二層と下位三層の間では婚姻することは許されません。もし黒彝の女性と白彝の男性が恋に落ちた場合、女性は自死を迫られ、男性は生きたまま川に投げ込まれます。逆の場合はというと、黒彝の男性は自己の「家支(父系氏族集団)」から排除され、特権的な支配層としての地位を失いました。現在でもこの階層社会の概念は彝族の人々のなかに残っているようです。そのため一部の黒彝出身の人々は今でも白彝の人との婚姻を認めないような人もいます。

 

「奴隷」とされたアジャやガシは、周辺の漢人が掠奪されてなったり、人身売買によってなったりしました。また「家支(父系氏族集団)」間の争いで負けた家支の者がなる場合もありました。周辺の漢人の出自である場合は「漢根」、彝族の出自であると「彝根」として区別しました。漢根の「奴隷」の地位は彝根の「奴隷」より低かったようです。

 

彝族の父系氏族集団は漢語で「家支」と呼ばれます。彝語では「ツォツ」と言います。強固な父系氏族集団を形成し、そのアイデンティティはとても強いものがあります。涼山地方の彝族の家支の多くは「グホ」、「チュニエ」と呼ばれる二つの系統から分岐しました。彝族の間で見知らぬ者同士が初めて出会った場合、それぞれが「父子連名」の調子で自己の系譜を祖先から自己まで朗唱します。これがいわば身分証明となり、お互いが何者であるかわかるわけです。

 

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四川省涼山地方の彝族の村(2008年、四川省布拖県にて)

 

彝族のこの家支は七代を経ると、分支することができます。その場合、儀礼を執り行い、別の家支となります。これにより新たに分支した家支の者は元の家支の者と婚姻を取り結ぶことが可能となります。涼山彝族社会ではこの家支が生活全ての面で関わってきます。何かもめ事や紛争が起きた時もこの家支を中心として解決をしようとします。家支のなかで重要な問題などがあった場合は「モンゲ」が開かれます。すなわち家支の人間が集まり、会議が開かれるのです。この会議によって重要な物事は決められます。家支には明確な首領はいません。リーダーシップをとる人物は「スジ」、「デグ」と呼ばれます。「スジ」は調停人のような立場にある人物です。それに対し、「デグ」はその言辞、立ち振る舞いが尊敬に値する人物であり、まさに家支のリーダーと目されるような人物のことを指しますが、明確な首領ではありません。デグの息子がデグとなることが多いようですが決して世襲でもありませんでした。

 

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年配の彝族の男性たち(2008年、四川省昭覚県にて)

 

20世紀中頃まで複数の家支の間で「打冤家(えんかをうつ)」と呼ばれる紛争がしばしば起きました。その原因もさまざまで、なかには人前で屁を放ったような些細なことからケンカとなり、数代にもわたって戦い続けていることもありました。

 

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フェルトのマントを羽織る彝族の男性たち(2008年、四川省布拖県にて)

 

こうした彝族社会では女性の地位が漢族の女性と比べて高かったようです。前述したように女性の土司もいたぐらいです。彝族の女性がもめ事の仲裁に立った場合は、これは必ず聞き入れなければいけなかったのです。また女性の実家である母方オジも大きな発言権をもっていたりしました。

 

彝族社会は家支を縦糸とし、階層社会を横糸として成立していました。歴史的には南詔国以外に統一した国家を形成することもなく、各地に小勢力が割拠するような状況のもとで彝族社会は近代を迎えました。

 

日本大学 清水 享

 

*写真は、すべて著者撮影のものです。無断転載を禁止いたします。

2 Responses to 【彝語】第2回 ~彝族の歴史と社会~

  1. 2016-06-11 at 16:23 中村達雄

    「羌」も、かつてはケモノ偏をつけていた時代がありました。門で虫を囲った「閩」、無知蒙昧で古い「蒙古」など、漢族に対する少数民族は受難の時代が長かったのですね。とても興味深い論考でした。

  2. 2016-06-11 at 16:24 中村達雄

    ところでマント生地のフェルトは自分たちでつくっているのでしょうか…。

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