トン族の村の現在と未来
多くのトン族の村が、山間部の交通の便がよくない場所にあるため、いくつかの観光化された村をのぞいて、外部の人が観光・宿泊で訪れることはまれです。長距離バスなどの公共交通機関が通っている村はまだ便利なほうで、バスの通らない村は、都市部に出るためには近隣の村まで(ときには数時間かけて歩いて)行ってからバスに乗る必要があります。ある村を歩いていると、外の人は珍しいので、すぐわかると言われました。村全体が顔見知りだそうです。
一見すると、都市部とは隔絶された別世界であるかのようにのどかなトン族の村ですが、テレビの衛星放送と携帯電話普及率は、低くありません。木造の伝統建築である古い民家にも、居間には必ずテレビがあり、日常の娯楽になっているようです。衛星放送だけでなく、DVDの視聴もされており、村ではトン族制作の大歌のDVDなどにまじって、映画やアニメのDVDを売る店もありました。若者はスマートフォンかパソコンを持っており、SNSによる外部との交流や、ネット上からの情報収集を行っていますので、都市部の情報がまったく手に入らないという環境ではありません。
これまで交通の便が良くなかった村にも、少しずつ道路が整備され、観光地化されることによって、村の経済が活性化されることを期待する向きもありますが、あまりに急激に観光地化されることによる、伝統や文化の崩壊への懸念もあり、単純な問題ではありません。しかし、情報化社会の発達により、離れた地域に住むトン族同士の交流が進んだり、文化活動が促進されたりするという効果もあります。トン族自身もネット交流サイトを持っており、トン族同士の交流のほか、文化的行事や観光情報など、外部に向けた発信を行っています。
トン族歌文化の現在と未来
「食べ物は体を養い、歌は心を養う」とは、トン族でよく聞かれる言葉です。トン族の歌には、民族の起源を伝える伝説歌や、祭りで歌われる伝統歌、労働の場、恋愛の場で歌われる歌まで、数多くの種類があり、中には教訓や道徳観を伝える歌もあります。それらの豊富な歌を習いおぼえることは、歌唱能力が上達し、記憶する歌の数を増やし、情操教育の効果があるだけでなく、人として必要なやさしさや思いやり、道徳観をやしなうことができるということでしょう。トン族のある村で、何十年もの間一度も犯罪行為が起きていないということを聞きました。普通に考えれば、村の内側に大事に保管すべき穀物庫も、村の外側にあるそうで、それはトンの村では歌を通した道徳教育が行き届いているからなのだと聞かされました。生活の中に歌が根づき、朝な夕な歌い声の響くトン族の村では、ときに歌が人生そのものでもあるかのようです。
トン族の人々は、幼い頃から「歌師」とよばれる歌の先生について歌を学びます。幼児向けの「児童歌」から練習し、成人以後も歌の練習を続けることで、歌の文化を継承していきます。長い時間をかけて蓄積された膨大な歌を口承し続けることで、今日の歌文化が保たれています。トン族の歌の世界は、中国内外のメディアにも注目され、紹介されてきました。そうした時に、必ず言及されるのが、歌の世界の豊かさとすばらしさと、その文化継承の問題についてです。「トンの村に歌の下手な者はひとりもいない」「歌がうまく歌えない者は結婚相手もさがせない」と言っていたトン族ですが、ベテランの歌師になれるまで修練を積むことのできる人は、そう多くはありません。
近年では生活環境の変化から、日常において歌の訓練を継続することができない人が増えてきたといいます。トン族のほとんどの村には高等学校がないため、遅くとも高校進学を機に、村を出て進学するか、長距離通学をすることになります。大学進学や就職となれば、ほとんどの若者が村を出るしかありません。これまで、村の人びとは農業を中心に生計を立ててきましたが、現金収入を得るためには、若者は都会へ行って就業するしかないのが現状です。中国の他の農村部と同様に、若者は都市部にいって就学・就職し、老人と子どもが村に残るという状態が進んでいます。学齢期の少年少女は学業を優先させるために、成年後は仕事が忙しくなるために練習の時間がとれなくなったり、生活の場が村の外に移ることで歌のある世界そのものから離れてしまったりすることが原因で、特に10代から20代の若者において、歌離れが進んでいます。また、大ベテランの歌師たちも、高齢化が進んでいます。トン族の歌は生活に密着していると述べましたが、すでに観光化が進んだいくつかの村では、祭りや日常生活にとけ込んだ歌文化はほとんど消え、観光ショーとしてのトン歌しか見られない状態になってしまっています。他の多くの伝統芸能と同じように、文化の保存と継承は、トン族にとっても大きな課題といえます。
もちろん、トン族の歌手・歌師たちも、この問題を少しでも解決するために、取り組みを始めています。自身も歌手であり、小学校でトン語の歌を教える先生は、進学や就職を機に、歌の練習を中断してしまっても、いつか歌の世界にもどってくる時のために、幼少期に歌の基礎をしっかり身につけさせることが大切だと話していました。また、歌師の高齢化に伴い、少しでも多くの歌を次世代に継承するために、歌の録音と、トン語表記で文字化することによる、歌詞の保存が進められています。すでにトン族古歌の一部は文字化され出版されていますが、膨大な数のトン歌の歌詞を、口伝のみで完全に保存することは難しいのが現状です。
こうした取り組みのなか、2009年にトン族の大歌がユネスコの世界無形文化遺産に登録されました。これにより、内外におけるトン族の歌文化の保存と継承のための取り組みがますます盛んになることが期待されます。
学校教育におけるトン語とトン歌
貴州省黎平県にあるトン族の村で、小学校の授業を見学させてもらったことがあります。低学年の音楽の授業では、「piinp bux neix(父母に孝行する)」というトン歌の練習をしていました。先生が黒板にローマ字表記のトン語で歌詞を書き、その文字を指さしながら、少しずつ区切って歌って聞かせます。先生が歌うのに続いて、児童たちも声をそろえて歌い、一時限の授業の終わりには、一曲分を通しで歌います。楽器による伴奏などはなく、まさに口伝のトン歌の授業ですが、民間で行われる歌の練習と違うところは、トン語の歌詞を文字で見ながら歌うことです。まだ年齢も幼く、トン語のローマ字表記を習得しているわけではありませんが、歌を習いながらトン語の表記法も少しずつ身につけることができる授業になっているようです。
見学させてもらった小学校
小学校でのトン語の授業
小学校での音楽の授業
つぎに見学した中学年の授業では、トン語のローマ字表記(主に声調部分)の解説と、トン語の書きとり練習がおこなわれていました。初めにトン語の声調記号の読み方のおさらいをしてから、先生が読み上げるトン語の単語を聞いてトン語のローマ字表記をノートに書き、漢語の意味を書くという練習をしていました。児童たちのノートを見せてもらうと、声調部分の綴りは判別が難しく間違えることもあるようですが、すらすらとトン語をローマ字表記で書いていました。学校の授業以外でこのトン語のローマ字表記を使う機会はほとんどないでしょうが、こうして小学生のうちから全員が練習しておくことで、将来トン語やトン歌を保存し、伝統文化を受け継ぐ活動につながっていけばよいと思います。
國學院大學文学部 兼任講師 渡邊明子
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