ナシ語は、中国の少数民族の一つ、ナシ族という民族が話している言語です。ナシ族は、中国雲南省の西北部、標高2400m前後の高原を中心に分布している民族で、人口はおよそ32万人です。ナシ語はナシ族の人々が日常的に話している言語ですが、ほとんどのナシ族は、中国で最も人口の多い漢民族の言語(いわゆる中国語。これを中国語では“漢語(ハンユー)”と言います。)も話すことができるのが普通です。
ナシ族の村落(雲南省シャングリラ県サンパ郷)
ナシ語は、シナ=チベット語族のチベット=ビルマ諸語というグループに分類され、いわゆる中国語(“漢語”)とは全く異なる系統の言語です。そのため、発音や単語はもちろん、基本的な文法についても“漢語”とは異なる特徴を持っています。ナシ語の基本的な語順は、SOV(主語―目的語―動詞)であり、これは“漢語”のSVOとは動詞と目的語の語順が逆になります。この語順だけを見れば、日本語と同じ語順とも言えますが、その他の文法の特徴においては日本語とはかなり異なるものがあります。
発音の上では、ナシ語の音節は、子音と母音のセットに、声調という音の高さの要素が加わって成り立っています。子音と母音のセットが基本であることは日本語と似ていますが、それぞれの子音と母音には日本語にはないものも沢山あります。ナシ語と日本語の単語が似たような発音になることもたまにあり、例えば「ハト」のナシ語は「トリ(ナシ語のローマ字でto’liqと表記します)」なので、ナシ族の人に「音も意味も日本語とよく似ているじゃないか!」と言われたりしますが、これは全くの偶然です。
ナシ語と日本語に関わって、ナシ族の人がよく言う冗談として、「ワタシワ、ニシムワ!」というものがあります。これはおそらく日本語の教科書に出てくる「私は西村」というフレーズの発音が、ナシ語と似ているということから生まれたものでしょう。「ワタシワ」はNgeq dal xi waq、「ニシムワ」はNeeq xi me waqですが、全体の意味は「私だけが人であり、君は人ではない!」となり、「私は西村」とは大違いです。このような他の言語との偶然の音の類似はよくあることで、例えばナシ語で「どうしようか?」という意味のフレーズは「セベベブレ?(Seiqbbei bbei bbee lei?)」と言いますが、この響きはフランス語の「Si’l vous plaît?(~してください。お願いします)」と似ています。
ナシ族の文字として有名なものに、唯一現在でも使われる象形文字とされる「トンバ文字」があります。トンバ文字は「象形文字」という言葉の通り、絵と文字の中間のような絵文字です。しかし、この文字を使うことができたのは、ナシ族独特の宗教であるトンバ教の儀礼を行う人(彼らが「トンバ」と呼ばれます)だけであり、ナシ族であれば誰でも読み書きできるような文字ではありませんでした。最近では、現地の観光開発にともなって、各種の観光物産のパッケージにこの文字がデザインされていたり、観光地の道しるべに中国語や英語とともに記されていたりしますが、一部の例外を除き、ナシ族が普段の生活の中でこの文字を使ってナシ語を書き記すことはありません。
トンバ文字は、それが本来用いられたトンバ教の経典においても、言葉の要素を完全に書き記す文字ではありませんでした。多くの場合、経典の読み音の一部しか書き表さず、場合によっては多くの部分が省略されていました。そのため、経典を読むトンバは、基本的に経典の読み音の全体を暗記しておく必要がありました。その意味では、トンバ文字は言葉を正確に記録するためというよりは、装飾的な意味合いで使われた文字であったとも言えるでしょう。
トンバ文字のように不完全な文字ではなく、正確に現代のナシ語を記すために作られた文字が、1950年代に作られたナシ語の現代ローマ字です(上のto’liqやSeiqbbei bbei bbee lei?は、この方式で書いています)。この方式は1980年代に数回の修正を経て現在に至っており、これまで現地で発行されたナシ語の書籍や新聞、教科書などに使われてきました。しかし、このローマ字は学校などでは十分に教えられておらず、正しく読み書きができる人はまだ限られています。そもそも、ほとんどの人が中国語(“漢語”)を使えるナシ族においては、書き言葉は“漢語”で行えばよいのであって、わざわざナシ語を書き記す必要があまりないのです。このように、話し言葉と書き言葉が別の言語であるというのは、日本語のような両者が整った環境にいる人からは不自由に思われるかも知れません。しかし、世界的に見ればこれはごく普通のことです。現地では、ごく近年になってようやく、急激な観光開発の中でナシ語が消えてしまうという危機感が生まれ、初めてナシ語を書き記すことの重要性が感じられるようになってきました。
ナシ族の民族衣装(雲南省シャングリラ県サンパ郷)
ところで、筆者はしばしば、「こんにちは」をナシ語で何と言うのかという質問を受けますが、正確に言うと、ぴったりと「こんにちは」に相当する言葉はナシ語にはありません。けれども彼らが挨拶をしないわけではなく、人に会った時には、それぞれの場面で最も適切な言葉を相手に対して発します。それが食事の時間帯であれば、「ハアズセ?(Ha el zzee seiq?、ご飯食べた?)」であり、道で知り合いに会ったときであれば、「ゼクブレ?(Ssei gv bbee lei? 、どこへ行くの?)」です。また、久しぶりに会った時などに相手の様子を尋ねる言葉には、「アララレ?(El lalaq lei?、元気ですか?)」があります。
國學院大学 文学部外国語文化学科 黒澤直道