現在、中国の西南部に住んでいるナシ族、イ族、リス族、ハニ族などの民族の祖先は、かつて中国の西北部で遊牧生活を営んでいた羌(きょう)人と呼ばれる人々であるとされています。紀元前4世紀頃、羌人は秦の圧迫を逃れて南下してゆきますが、その一部が南下する途中の地に定着し、これらの民族の祖先となったと言われます。ただし、ナシ族の文化には羌人のような遊牧民的な要素の他に、農耕民的な要素も色濃く見られるため、南下してきた遊牧民と土着の農耕民の融合という側面も重要視されています。
農村で牛を追う若者(雲南省麗江市玉龍県大具郷)
9世紀、ナシ族の祖先の住んでいた地域は唐の影響下にありましたが、その後、拡大してきた吐蕃(とばん)(チベット)の支配を受けます。この時期以降、雲南にはチベット・ビルマ系の南詔(なんしょう)国や、現在の白(ペー)族の祖先が中心であったとされる大理(だいり)国が興り、ナシ族の祖先もその支配下に入っていたと思われています。13世紀には、世界帝国を築いたモンゴルの軍隊が大理国を征服しますが、その直前、ナシ族の首領、麦良(マイ・リャン)はモンゴル軍に投降し、土着民族の首領に与えられる「土司(どし)」という役職を授けられます。
14世紀、モンゴルの元朝が滅ぶと、麦良の子孫の阿甲阿得(ア・ジャ・ア・テー)は続いて興った明朝に帰順し、やはり土司の役職を授けられます。さらに、阿甲阿得は漢民族風の「木」という一文字の姓を与えられ、これ以降、彼らの家系は「木(ぼく)氏」と称されるようになります(それ以前のナシ族には、姓がありませんでした)。明代の木氏は、積極的に漢民族の文化を取り入れていったことで知られています。土司自らが漢民族の文化である漢詩文に習熟し、多くの作品を残しています。このような明代のナシ族土司の漢詩文は、「土司文学」と呼ばれることもあります。
復元された木氏土司の宮殿「木府」(雲南省麗江市)
一方で、明代のナシ族土司について近年見直されてきたのは、チベットとの結びつきです。15世紀半ば以降、木氏土司は隣接するチベット人地域へと軍事行動を起こし、その勢力を拡大しました。また、この動きはチベットとの宗教的な関係を深めることとも密接に結びついていたようで、当時、木氏はチベット仏教カルマ派との交流を続けており、チベット大蔵経出版事業の施主にもなっています(木氏土司とチベットとの関係については、山田勅之著『雲南ナシ族政権の歴史―中華とチベットの狭間で』(慶友社)を参照)。
17世紀の半ば、各地に起こった暴動で明朝が滅ぶと、満州族の清朝が中国全土への支配を進めてゆきます。清朝の軍隊が雲南に入ると、この時のナシ族の土司であった木懿(ぼく・い)は清朝に帰順し、やはり土司の役職を授けられます。しかしその後、清朝は少数民族の地域に対し、中央政府による直接統治を進めるようになり、18世紀の前半には木氏は実権を失います。これ以降、ナシ族の居住地域では、中央から派遣された官僚が様々な施策を行い、土司のような上流階級だけでなく、一般の民衆に対しても漢民族の風俗習慣が浸透してゆきました。これらは、服装や、結婚、葬礼などといった生活習慣の様々な面に及び、現在では、特にナシ族の居住地の中心部においては、独自の言語であるナシ語と、独特の信仰であるトンバ教を除けば、ナシ族独自の文化というものはむしろ見出しにくくなっているというのが実際のところです。
ところで、現在の中国の少数民族としての「ナシ族」の中には、「ナシ」と呼ばれる人々の他に、「モソ」(あるいは「ナ」)と呼ばれる人々や、「マリマサ」、「ラゼ」と呼ばれる人々なども含まれています。このような一つの民族の中に見られるさらに細かな区分のことを、中国では一般に「支系」と呼んでいます。これらの支系のうち、人口の最も多いものは「ナシ」で、次いで約4万人ほどの「モソ」がいます。「ナシ」の人々と「モソ」の人々の文化には大きな違いがありますが、言語の上では「ナシ」がナシ語の西部方言、「モソ」がナシ語の東部方言を話す人々とされています。この西部方言と東部方言の間の違いはかなり大きく、両者に共通する語彙はおよそ6割程度とされ、それぞれの方言同士では、会話が通じないこともしばしばあるようです。
二つの支系のうち、「モソ」と呼ばれる人々の婚姻にまつわる独特の文化は有名で、これまでにも多くの研究が行われてきました。夫婦が同居せずにそれぞれの生れた家で暮らし、男性が夜だけ相手の女性を訪問する「訪妻婚」と呼ばれる習俗は、かつての日本の平安貴族に見られた妻問い婚とも似ているとされ、日本でもその関心からしばしば紹介がなされてきました。しかし、このような習俗は現在のモソの若者たちの間にはあまり見られなくなっているようです。
國學院大学 文学部外国語文化学科 黒澤直道