プイ族の歴史と文化
中国貴州省や雲南省といった中国西南地域は、中国国内でもとりわけ数多くの民族が暮らしていることで知られています。この地域の民族分布はよく「大分散小聚居」と呼ばれ、村や集落レベルでは同じ民族が集まって暮らしながら、広域に見るとさまざまな民族が入り混じっています。こうした諸民族はしばしば共通した祖先を持つとともに、漢族を含むさまざまな民族と入り混じりながら形成されてきたと考えられています。
プイ族の歴史は他の少数民族と同じく漢族王朝側のきわめて不十分な史料に頼る他はなく、詳細はよくわかりませんが、その起源はおおむね「百越」とも言われる多様な氏族からなる古代の越人だとされています。越人は夏王朝や商王朝時代に長江中下流域に暮らしていましたが、その後大量に東南方向に移住し、さまざまな支系を形成していったと考えられています。そのうちの駱越(らくえつ)支系がプイ族の起源ではないかという説が有力ですが、他にもさまざまな説があってはっきりしたことはわかりません。プイ族の歴史をまとめた『布依族史』(黄義仁著)によると、南北盤江流域や紅河流域に暮らしていた原住諸民族に、後から屯田兵などとして移民してきた漢族が混血・融合して形成されたのがプイ族、ということになるようです。『布依族史』では越人よりさらに古い旧石器時代にまで遡ってプイ族の起源を探っていますが、さすがにそこまで遡って直接の祖先と言っていいのかどうか、筆者にはわかりません。
貴州省羅甸県あたりの紅水河の景色。2007年撮影
プイ族の起源を歌った叙事歌謡には、古代の狩猟採集生活や氏族社会の様子が歌われています。古代には女神信仰のようなものも見られ、母系社会が形成されていたようです。その後農耕が主流になるにつれて父系社会へと変わっていったとされています。古代において貴州省で現在プイ族が暮らしている地域ではいくつかの民族集団が併存・融合しながら、まず牂柯国(そうかこく)、続いて春秋戦国期には夜郎国(「夜郎自大」で有名なあの夜郎国です)が勃興しました。
これが漢王朝に滅ぼされて以降は中原の王朝の支配を受けるようになります。唐代には羈縻(きび)政策が行なわれ、元代からは土司が置かれて封建領主による統治が行なわれていました。こうしたなかで貴州省への漢族の流入が続くとともに、その文化的影響が広がっていったようです。清代になると「改土帰流」と呼ばれる直接統治に近い政治体制へと置き換えられていきました。辛亥革命が起こると雲南軍閥と貴州軍閥が割拠する戦乱の時代になり、そこから中華民国の直接統治時代を経て中華人民共和国に「解放」されて現在に至ります。
「プイ族」というもの
さて、この「プイ族」(中国語では「布依族」)ですが、実は最初からそういう名前の民族としてまとまっていたわけではありません。この名称は、全国民を一定の公的に認められた民族に分類するために新中国成立直後から大々的に行なわれた、「民族識別工作」という国家プロジェクトの一環として、1953年に開かれたプイ族の民族名称を議論する会議を経て公式に認められたものです。
それまで、「プイ族」は自称では「布依」「布越」「布夷」など、他称では「仲家」「仲苗」「土家」「水戸」「本地」などという名前を持つ複数の集団でした。これが中華人民共和国の政策によって「布依族」という集団にまとめられたのです。このプロセスはすんなり進んだようですが、実は問題があります。それは、近い民族集団との関係です。
前回も触れましたが、プイ族と同じと考えられている民族集団は雲南省や四川省、ベトナムにもいます。こうした地理的広がりを含みながら自称・他称とも複数ある集団をまとめた経緯が、2000年代に立てられた「布依族名遡源碑」という石碑に表現されています。その文章には「百越の末裔が夜郎を雄々しく打ち立て西南を開拓し」という文句があります。この石碑の建立を働きかける通知の注釈によると、この「西南」は通常「西南」に含まれる雲南や四川以外にも、中国の民族政策とは関係ないはずのベトナムやラオスまで含む、とされているのです。
広い地域の人々を「プイ族」にまとめただけではありません。ある一定の人々をまとめることは、同時にそれ以外との区別を設けることを意味します。プイ族と区別されたのは、貴州省の東南に隣接した、広西チワン族自治区に住むチワン族です。
チワン族は人口1800万人以上いる大きな民族ですが、全体的にプイ族とよく似ていて特に北部(つまり貴州省に近い地域)に暮らす集団はプイ族と言語も習慣もほとんど同じなのです。貴州省とチワン族自治区の境に流れているのが紅水河なのですが、たまたまこの時期に河の両岸に分かれて暮らしていた兄弟がいて、貴州側のほうはプイ族、広西側のほうはチワン族として認定されたという話も聞きました。
こうした事態が起こったのにはいろいろな事情があると推測されますが、なかでも「紅水河が省の境界線になり、その南側がチワン族の自治区となった」という事情が大きいように思われます。河の南側に暮らす人たちにとっては、自治権を持つ大民族と一緒になった方がなにかと便利だったようです。
筆者が貴州省にいたとき、この妙な事態そのものに対する異議を聞いたことはありません。もちろん政府の確定された方針に異を唱えることの難しさがあると考えてもよいのですが、どうもそういうことより、そもそもほとんどの人が「公的に少数民族として認められるならどちらの民族でもよい」と思っている、という感じが大きいように思われます。
現地でむしろしばしば聞かれたのが、若者が自民族の伝統に興味を持たず漢族化していることへの嘆きであり、若者の間でよくある、少数民族への(特に進学面での)アファーマティブアクションを受けるために民族を変更すること(中国では公的な身分証に民族名が書かれています)への屈託のなさです。「プイ族」の人々は、分類の厳密さよりも、実際自分にとって民族分類が日常生活上どういう価値を持つのかに関心があるようです。もちろん、人によるのでしょうけれど。
京都大学 梶丸岳
*写真は、すべて著者撮影のものです。無断転載を禁止いたします。