「ペー族はどこからきたのか」
古くは唐代(618−907)、唐の人たちは中国西南地にすむ非漢人たちを「烏蛮」と「白蛮」とに区別していました。ただし、その違いに明確な境界はなかったようです。おおむね中国とは異なる言葉や文化習慣を持っている集団を烏蛮と呼び、漢語の影響を強く受けた言語を話し、中国の文化習慣をある程度受け入れている集団を白蛮と呼んでいたようです。現在の研究では、この白蛮の一部が、ペー族の先祖のうちの主要な集団であると考えられています。
8世紀半ばごろから興り、今の雲南省を中心とした地域を902年まで統治していた南詔国という国がありました。南詔国の王族は烏蛮の蒙氏一族でしたが、これを支える支配層の多くは白蛮でした。南詔国の後半期になると、同国では「阿嵯耶観音(あさやかんのん)」と呼ばれる、独自の菩薩を中心とした王権思想が創り上げられました。この王権思想は、南詔国末期に原本が描かれたとされる『南詔図伝』と呼ばれている絵巻物に明確に示されています。さらにこの思想は、その後の大理地方やペー族の先祖たちに影響を与えています。
902年に南詔国が滅びると、雲南地方では短命な王朝が続き、937年、最終的に大理国が南詔国の支配を継承しました。大理国の王族段氏は白蛮出身の一族でした。この雲南を中心とした地域を支配した南詔国・大理国は、共に今の大理地方に都を置きました。「第1回」で述べたように、この大理地方に現在ペー族が最も多く住んでいます。ちなみに石材で使われる「大理石」とは、本来大理盆地西側の点蒼山などから産出された石のことを言いました。
1253年、大理国は滅亡します。モンゴル帝国第4代カアンであるモンケ(在位1251–1259年)が、弟のクビライ(のちのモンゴル帝国大カアン、元朝初代皇帝)に命令してモンゴル軍を率いさせ、大理国を攻撃したためです。王族の段氏はモンゴル・元朝の官職を授けられて存続を許されますが、雲南地方は元朝の統治下に組み込まれます。このころになると史料上、「白人」という語が現れます。これは現代ペー族の自称の一つ、「ペーニ( Berp nid )」と同じであると考えられます。
このようにかつての雲南にあった王朝の支配層の形成していた白蛮そして白人は、中国王朝の支配下に組み込まれ、明清時代をへて現代のペー族を形成していくことになります。
「二つの歴史」
ところが現在のペー族の多くは、自分たちの先祖について、全く違った知識を持っています。このことは雲南地方が本格的に中国の統治下に組み込まれる明代(1368–1644)以降の歴史に関係があります。ここで明代以降の白人の歴史をみていきましょう。
1368年、朱元璋が明を建国し、年号を洪武とします。洪武14年(1381)に傅友徳・沐英・藍玉らが率いる明の大軍が雲南地方の元朝勢力を撃破していきます。これ以降、明は兵農一致の軍事制度である衛所制をしき、雲南統治に努めました。これにともない中国内地から大量の漢人が移住してきました。明による雲南征服は、現在の雲南地方の民族分布を考える上でも非常に大きな事件でした。
雲南地方が明の統治下に入ると、それまでとは比べ物にならないぐらいに中国文化の影響を受けることになります。ペー族の先祖たちも、科挙などを通して中国の政治に積極的に関わっていくことになります。しかしこのことがペー族の先祖が漢人に同化したことを示しているわけではありません。
明代以降のペー族の先祖が残した文章の中には、自らの先祖と、南詔国・大理国や前述の阿嵯耶観音の伝説とを結びつける記述がみられるようになります。さらに漢字を用いてペー語の文章を表現する「ペー文」も、このころから登場するようになったと考えられます。つまりペー族の先祖たちは、外来文化である漢字を利用しながら雲南の王朝時代から続く自分たちの歴史を記述するようになります。さらには漢字を用いて自分たちの言葉を書き写す方法も作り出し、漢人たちとの違いを主張していきます。
しかしこうした動きは明の滅亡、さらには清(1644–1912)による雲南統治の強化によって失われていきます。清の雲南統治が本格化していくのは、雲南を拠点とした呉三桂による三藩の乱(1673−1681)平定以降のことです。この頃になると南詔国建国を予言した阿嵯観音に関する記述が減っていきます。また清は南詔国・大理国の歴史をも否定するようになります。このような傾向が、清末まで続いたと考えられます。
こうした流れは白族の先祖たちが持つ族譜(家系図)の記載にも変化をもたらしたと考えられます。上述のように現在のペー族の大多数は、自分たちの先祖は洪武14年(1381)、明の雲南遠征軍に従い、当時の明の都であった南京からやってきたと考えています。この始祖伝説はペー族以外の雲南諸民族の間でも広くみられるものです。
例えば民国14年(1925)の序がある『大理古塔橋趙氏族譜』という大理で編纂された書物があります。この族譜には、この趙氏一族の始祖が洪武14年(1381)に南京よりやってきたことが記されています。ところがこの家系図の別の部分には、この一族はもともと大理の土着であり、さらに遡れば、はるか昔に観音菩薩に従ってインドよりやってきたと述べられています。つまりこの族譜では、自分たちの始祖が14世紀後半に南京よりやって来たと主張しながら、同時に自分たちの先祖は、遥かに昔にインドより大理にやって来て、南詔国・大理国時代には大理に定住していた土着の民であったと主張しています。
[『大理古塔橋趙氏族譜』部分、「塔橋趙氏始祖の肖像」]
こうした歴史叙述の矛盾は、実際の社会の中でもみられます。大理地方の白族(ペー族)には、「本主」と呼ばれる独自の信仰が存在し、それぞれの村落で独自の神が祀られています。神として祀られているものとしては、歴史上の英雄(外来の征服者なども含まれる、伝説上の白族の先祖、自然物、仏教・道教の仏・菩薩や神々)などがあげられます。歴史的な人物のなかには南詔国・大理国時代の人物とみなされる人々も多く含まれています。そうした神々についての伝説(歴史叙述)も、自分たちの歴史として、現在でもなお語り継がれています。
[大理喜洲鎮の本主「建国皇帝大護法」、南詔国時代に実在した清平官(中国の宰相にあたる)の段宗牓のことだと考えられています]。
すでに述べたように、現代の白族自身が考える「歴史」という問題に目を向けてみると、必ず「南詔国・大理国以来の土着民としてのペー族」、「南京から移住してきた移民としてのペー族」という2つの「歴史」が登場します。
この2つの歴史は、近代的な歴史教育を受けた私たちにとっては、矛盾に満ちたものにみえますが、彼らにとっては特に問題なく受け入れられている「歴史」です。
つまりこの2つの「歴史」はともに矛盾した知識ではなく、併存する自分たちの「歴史」なのです。
東海大学 立石謙次
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