雲南省文山壮族苗族自治州は、省都昆明から、東南へ約360㎞、ベトナムとの国境沿いに位置します。ポコポコとした岩山が連なる石灰質の土壌の土地には、漢族、チワン族、ミャオ族、ヤオ族、イ族など12の民族が暮らしています。文山州に居住するミャオ族は、ほぼモンで、約40万人います。隣接する紅河彝族哈尼族自治州のベトナム国境沿いにも多くのモンが居住しています。
これらの地域を訪れて目を引くのが、民族の服飾の多様さです。この地域では、週に1度、あるいは5、6日に1度の周期で、定期市がたちます。定期市では、穀物、肉類、野菜といった食料品、衣類や生活雑貨、牛や豚、馬といった家畜などが売買され、米線(雲南省でよく食べられる米でできた麺)や串焼きを食べさせる屋台が並びます。朝早くから、周辺の村々の人が集まり、その賑わいは、私の目にはさながらファッションショーのように映りました。それぞれが独自の服を着用し、また同じ民族であってもひとつ山を越えれば、また違う服を着ていることもあります。観光化されていない地域であるため、ふだんの様子をそのままみることができるのも魅力です。
定期市の様子(2004年)
定期市に行くと、少数民族の着ている服は、染織や刺繍などの手仕事で作られているのだという幻想のような思い込みも覆されます。定期市には、既製の「民族衣装」や、色とりどりの工業製布地、刺繍テープやビーズなどが売られていて、多くの女性が自ら着用するものとしてそれらを買い求めています。「民族衣装」に幻想を求めているままでは、彼女たちがいま着ている服は「本物」でないとの印象を持ってしまうかもしれませんが、それほど、手仕事の部分と工業製の部分とが複雑に組み合わせられて、ひとつの装いを形成しています。
私は、特に素材やデザインの移り変わりが顕著なモンの服が、具体的にどのように変化しているのかを知りたくて、ある一家の3世代3人の女性たち(72歳の祖母、39歳の母、18歳の娘/2008年当時)の所有する服、合計233点を調べました。
モンの装いは、上衣、スカート、前掛け、腰帯、脚絆、頭巾から成ります。特徴的なのがスカートです。5~6メートル(両腕を伸ばした長さ×4)もの長い布に、細かいプリーツをつけた膝丈の巻きスカートです。伝統的には、自家栽培した大麻を糸にし、織って布にしていました。そのため大麻布のことをモンの布(ndoub Hmongb)とも呼びます。スカートは、モンのサブ・グループによって文様や装飾に違いがありました。モン・スー(Hmongb shib)と自称する人々のスカートは、3段構成になっています。腰部分は無染色、中央部分は藍によるろうけつ染め、裾部分は藍染めをしたのち刺繍(クロス・ステッチ)をほどこします。モン・ジュア(Hmongb nzhuab)、モン・ボア(Hmongb buak)、モン・ベイ(Hmongb bes)の人たちは、2段構成になったアオ・ロー・ポー(aob lob bot/「2枚の布」の意)と呼ぶスカートを穿きます。モン・ドゥ(Hmongb dleub)は、無染色、無装飾の無地のスカートです。
モン女性の装い(2007年)
アオ・ロー・ポーのスカート
モン・ドゥのスカート
私が調査した一家が暮らすのはモン・ジュアの村でしたが、隣県から嫁に来た祖母がモン・スーだったため、モン・スーの服が多くありました。この家にあった最も古いスカートは、祖母が母から受け継いだというもので、1940年代につくられたものだろうと言います。上から下まですべて大麻布で、布は手縫いで縫われており、刺繍糸は絹糸です。2000年くらいまでは養蚕していたとのことです。非常な手間をかけてつくったスカートであることが想像に難くありません。これは亡くなった母親の形見として、未着用のまま大切に保管されているものです。
モン・スーのスカート。1940年代に製作されたもの。
1980年代になると、それまでタテ・ヨコ糸ともに大麻糸だった手織り布のタテ糸に綿糸が使われるようになります。市場で工業製の綿糸が入手できるようになり、織る際に切れやすいタテ糸に、丈夫な綿糸が使用されるようになりました。またカラフルな毛糸が入手できるようになり、装飾として縫い付けられるようになります。
1980年代に製作されたスカート
1990年代に入ると、化繊布が流通しはじめます。これまで手作業でおこなっていた服作りの大部分を、工業製の布地などで代替できるようになります。また、既製のモンの服が販売されはじめたのもこのころです。1991年に文山県に、地元のあるモン男性が、モンの衣装を専門に製作・販売する服飾工場を設立します。最初は家族で、モン・スーのスカートの中央部分(ろうけつ染めの布)などを製作、販売していたようですが、徐々に近隣の10代のモン女性を十数人雇用し、分業体制で、効率よく製作するようになっていきます。モンの服が、既製服として「売れる」ことが分かると、これに参入する個人経営者が増加しました。多くが地元のモン女性で、自宅で服作りをし、週に何度か定期市に赴き露店を出します。このようにして、1990年代にかけて、モンの服の既製服化が一気にすすみました。
2008年に製作されたスカート
町で販売される既製のモンの服(2015年)
市場でこれらのものが購入できるようになると、染織をする人が激減し、現在ではほとんどいなくなってしまいました。モンの女性にとって、かつての服作りは重労働でした。女性たちは「染織はすべての工程が大変だ」と口をそろえ、既製服の登場で重労働から解放されたことを喜びます。「(出稼ぎ先で)3日働いたらスカート1枚を買うことができる」とも言われます。また、1枚で1㎏ほどの重量のある大麻製のスカートは重く、「着ると腰が痛くなる」、「雨に濡れると重い」、「洗濯も大変」というように、着用、洗濯ともに労力を要したものでした。それに比べて化繊の布で製作したスカートは、400gから600gと軽く、また最近は洗濯機で洗うことも可能です。
町に住む人はもちろん、農村に居住する人たちも、老年齢の女性を除き、この10年ほどでほとんどがいわゆる洋服を着るようになってきました。男性は、より早い時期から、洋装です。しかしモン女性にとって、モンの服はいまだに重要な意味を持ちます。
女性たちは旧正月に向けて、毎年新しい服を準備し、旧正月3日目からはじまる祭りでそれを見せびらかします。このときに、新しい服を着ていないと、女性なのに服作りの技術を習得していないのだとか、困窮した暮らしをしているのだとかと、揶揄されます。そのため、新品の服を準備することが何よりも重要です。旧正月に着たハレ着は、徐々に定期市やさまざまな集まりに着ていくための余所行き着となり、次第に普段着、労働着となっていきます。いよいよ着古してくると、縫い直して労働用のエプロンにしたり、風呂敷代わりの布、手拭き用布、割いて紐として使用されたりして、布としての役割を終えます。
1年間、農作業や家事労働で忙しく過ごす女性たちは、旧正月の祭りでここぞとばかりに着飾り、余暇を楽しみます。かつて手作業で服を作っていたころは、ろうけつ染めや刺繍の技術のち密さ、美しさ、文様の目新しさ、縫製の正確さなどが、その作り手の性格や資質をあらわすものでした。既製の服を購入するようになってきた最近では、いかに目新しい色、模様、形態の服を着ているのかという点が注視されます。特に未婚女性は、「いままで見たことがないデザイン」や「まだ人が着ていない色」を着ることで、自らのセンス、あるいは購買能力を示します。
祭りで既製の服を着る若い女性(2015年)
祭りでの老年齢の女性の装い(2015年)
祭りでは幼い女の子も着飾る(2015年)
南山大学 宮脇千絵
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