何年か前のことですが、中国雲南省の省都昆明市の漢族大学生に、ワ族文化のイメージを聞いてみたことがあります。その結果、“司岗里传说”(スガンリ伝説)と“砍头习俗”(首狩り習俗)が二大イメージでした。以下では、それぞれの文化的背景を紐解いてみたいと思います。
スガンリ伝説
スガンリ(“司岗里”は中国語による音訳)とは、ワ族の創世神話の総称です。「スガン」についての解釈は、地域によって大きく「瓢箪」派と「洞窟」派に分かれます。「リ」は「出る」の意味ですので、前後の文脈を補って解釈するならば、スガンリとは「人間の誕生したところ」ということになるでしょう。以下に洞窟派の代表である、雲南省西盟県にて採録したスガンリの一場面を紹介します。
モイック様(万物創造の主)は人間を作り出しました。そして、人間を洞窟の中に閉じ込めたのです。ある日のこと、ガビチョウが岩でふさがれた洞窟のそばを通りかかりました。ガビチョウは洞窟の中で人間が騒いでいるのに気がつき、慌てて仲間の動物、植物に知らせに行きました。
ガビチョウは「人間が出たがっている。岩の中で彼らが叫んでいるのを聞いたんだ」と告げました。動物や植物はこれを聞き、大いに慌てました。そして口々に、「人間を出すのに賛成か、反対か」「もし人間が出てきたら、私たちはどうしたらいいんだろう」といいました。……
(拙著『スガンリの記憶:中国雲南省ワ族の口頭伝承』より)
ずっとずっと昔、人間は瓢箪ないしは洞窟の中に閉じ込められていました。ある時、動物たちの助けを借り、ようやくそこから出ることができました。その際、もっとも早くワ族が出てきました。だからワ族が長男。そして次男ラフ族や三男タイ族、四男漢族がこれに続いたのです。
ワ族の文化理解に、スガンリは欠くことができません。それはスガンリがワ族の宇宙観、世界観、人生観、歴史観そのものだからです。「昔々、人間がスガンから出てきた頃……」などといった独特の調子ではじまり、世界の千変万化すべてが人間の誕生した時代を起点に語られます。表記伝統のないワ族にとって、様々な動植物の由来譚をはじめ、自らの集団が代々経験してきた歴史的事象、文化的活動の意義などについても、スガンリと結びつけて語る、というのが本来の伝承スタイルであったと推測されます。
スガンリには地域的な「亜種」が多く存在します。例えば、瓢箪や洞窟から出てきた民族やその順番は地域によって異なります。これはそれぞれの地域における民族分布や先住性が反映されたとみることができそうです。なお、瓢箪派の地域では、人間が瓢箪から出る場面を後段とするような異伝も観察されます。そこでは未曽有の大洪水が発生し、人間(擬人的な意味での)は男女一組だけが生き残りました。その組み合わせが人間の男と雌牛だったり、万物創造の主であるモイックと雌牛だったりします。やがてそのペアが結ばれ、産み落とされた瓢箪から人類が再生します。
このような瓢箪や洪水が関係する創世譚は、華南地域から東南アジアにかけて広くみられるもののようです。こうした地域的な特徴を踏まえ、瓢箪起源のスガンリは周辺民族からの影響による後発的な形態、洞窟起源のスガンリがより古い形態と分析されることがあります。
ワ族の間では、この原初的なモチーフと思われる洞窟が現ミャンマー領の「ロイムー」と呼ばれる山の麓にあると伝えられています。ロイムーの山頂には聖なる湖沼があり、ワ族の始祖はそこでオタマジャクシとして生活を始めました。そしてカエルを経て、化け物の姿で洞窟生活をするに至ったとされます。これは洞窟解釈のスガンリよりも、さらに原初的な人類起源譚といえるかもしれません。
【写真3-1:ワ族居住地域で見つかった壁画。牛や人が描かれている】
首狩り習俗
ワ族は首狩り習俗のある人びととして、畏怖をもって語られることがあります。今日、さすがにそうした事件はありませんが、「かつてこのあたりでうちの村人が首狩りにあった」とか「あの村は首敵だ」といった話を耳にすることがあります。また、「悪さをして首を切られてしまった」といった物語の顛末も少なくありません。ワ族にとって、首狩りという行為は歴史・文化的な記憶であると感じます。
しかし、こうした「争いとしての首狩り」「懲罰としての首狩り」はどうやらずっと時代が下ってからの事態のようです。首狩りはもともと、豊穣を願う農耕儀礼の一環としておこなわれていたとされます。この儀礼的活動は、他民族との接触地帯から次第におこなわれなくなりました。かつてもっとも盛んにおこなわれていた地域でさえ、政府による禁止令が出た後、70 年代を最後に過去のものとなったといいます。
首狩りの起源について、スガンリ以前の始祖の段階で、すでに備わっていたとするものから、漢族との接触によりもたらされたとするものまで、地域によって様々に言い伝えられています。面白いところでは、三国志の英雄、蜀の宰相であった諸葛孔明の名前がこれに関わった人物としてしばしば登場します。例えば、漢族との接触の早かったある地域では、諸葛孔明は先進的な道具や知識をもたらし、悪習であった首狩りをやめさせた、まさに英雄でした。その一方、やや保守的なある地域では、諸葛孔明こそが首狩りをもたらした張本人であると語られていました。これは歴史的事実というより、漢族文化の浸透度といったことの反映であるように思われます。
【写真3-2:無数の牛頭で囲まれた聖地。民族表象として新たに作られた】
日本医療大学 山田敦士
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